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漢書(前漢書/漢書地理志)

漢書(前漢書、漢書地理志)の中で倭に関する記述を解説しています。「如淳の注釈」の解釈が大きなカギになっています。古代日本(倭)の研究や邪馬台国論争において漢書は重要な史料です。

邪馬台国の時代よりさらに古い、紀元前の倭国の様子が記録されている『漢書』。
別名『漢書地理志』や『漢書地理志燕地条』とも言う漢書は、倭についての最古の記録であるとされています。

目次

漢書とは

漢書は、中国の王朝・前漢1について記した歴史書で、「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の合計100巻で構成されています。

『漢書』における倭の位置付け
『漢書』における倭の位置付け

「志」の第8巻・地理志の燕地条(中国の燕国・燕州について記述した条)の中に、倭についての記述があり、これが倭についての現状最古の記録となっています。

そのため、日本では『漢書地理志』や『漢書地理志燕地条』という名で通っています。
また、現在出回っている漢書は通常、顔師古(がんしこ)がつけた注釈付きのものです。

後漢書との区別から「前漢書」と呼ばれることもあります。

『史記』との関係

同じく前漢のことを記述している歴史書に『史記』があります。
しかし『史記』は紀元前90年頃に完成しているため、そこから前漢が終わる紀元後8年までの約20年分の記述がありません。
他にも『史記』には矛盾点や不統一性があるなど、内容に心もとない面があったようです。

そこで『史記』の後を引き継ぎつつ批判する形で、班彪が64編からなる”後伝”を作成していました。
その班彪の子である班固(はんこ)が『史記』と”後伝”を基に『漢書』を作成しています。
さらに、年表8つと天文志は班固の妹である班昭と経学者の馬続によって補完されました。

編纂者生没年役職功績
司馬遷紀元前145/135年~
紀元前87/86年
前漢の歴史家紀元前90年頃に『史記』を完成
しかし前漢は紀元後8年までの王朝である
班彪3~54年後漢の歴史家『史記』を引き継ぐ”後伝”を作成
班固32~93年班彪の息子
後漢の歴史家・文学者
『史記』と”後伝”を基に漢書を作成
漢書の作成途中で獄死
班昭45~117年班彪の娘
中国初の女性歴史家
八表・天文志を書き継いで漢書を完成
馬続詳細不明学者班昭を助けたとされている
「後漢書」列女伝・班昭などから推測

資料データ

班固像
班固像
著者班彪、班固、班昭、馬続
成立年82年頃(諸説あり)

漢書は『史記』がベースになっています。

出典

原文を見る@漢籍電子文献資料庫
「免費使用」をクリックし、「楽浪海中有倭人」で検索すると倭に関する記述を確認できます。
2025.01.13 閲覧確認

信憑性

総合評価
( 5 )
メリット
  • 歴史上の記録を重視した記述になっていて正確性が高い
  • 通史ではなく断代史(一つの王朝に区切った歴史書)なので内容が専門的
デメリット
  • 前漢時代以降に生まれた複数人で記載しているため細かい内容の正確性は疑問

『漢書』は二十四史と呼ばれる中国の正史の中で『史記』と並んで最高の評価を受けています。
特に歴史上の記録という面を重視されていることから、記述内容の正確性は『史記』より高いとされています。

ただし実質前漢時代を生きていない複数人2が記載しているため、細かい内容の正確性には若干疑問が残ります。

内容

漢書地理志の中で倭に関して触れているのは、ほぼ一文だけです。
しかし、あえて倭の話より少し前の文から触れたいと思います。

従順な東(朝鮮)の国

中国王朝は異民族に蔑称を付けていましたが、東国だけはやや格上に見ていた描写が『漢書』にあります。

四夷の図。「東夷(とうい)」「 西戎(せいじゅう)」「南蛮(なんばん)」「北狄(ほくてき)」に分かれる。
四夷(wikipediaより引用)

東国が格上の理由は、東夷(楽浪郡支配下の豪族)は箕子朝鮮がルーツであるからだとしています。

詳細は別途記事にしていますので参照してください。

少なくとも漢書地理志においては、中国は北・南・西の国々に比べて東の国々をやや格上に見ていた。

倭について

先述の通り、倭に触れているのは以下の一文だけです。
『漢書』の完成は西暦80年頃とされていますが、この一文は紀元前1世紀頃の様子だと推測されています。
ただし、特段手がかりはなく正確な時期は分かっていません。

楽浪海中有倭人 分為百餘國 以歳時來献見云

『漢書』巻28 地理志 燕地条

最後が「云(言う)」と伝聞形になっている部分に注意が必要です。
・単純に、実際見たわけではないので伝聞形にしただけ?
・倭の使者は燕国の都(現在の北京付近)まで行かず、楽浪郡までしか行っていない?
・前漢時代は倭が朝見に来ておらず、前漢以前(周や秦の時代)のことを指している?

朝見・朝貢した頻度については以下ページを参考に、自分なりに解釈してみてください。
ここでは一番頻度が多い「季節ごと」説を使用しました。

注釈に対する論争


原文「楽浪海中有倭人分為百餘國以歳時來献見云」は、少なくとも邪馬台国論争においてはあまり重要ではありません。
邪馬台国論争において重要なのは、この一文に対して後年に3人が付けた注釈です。

なぜこんなに注釈があるのか?

漢書の読解は難しいと当時から思われていたためです。
そもそも『漢書』には難読の語句が多く、注釈が乱立しているような状態だったようです。
さらに、大きく分けると北朝(旧注釈)と南朝(新注釈)の二系統があります。
唐時代には漢書学者と呼ばれる漢書の専門家がいたほど、漢書の読解は難しいものでした。

如淳の注釈

如淳3は3世紀の魏の官人とされ、三国志(魏志倭人伝)の著者・陳寿より古い世代とされます。
ただし如淳のことは、現状ほとんど分かっていないため詳細は不明です。
年代的には魏志倭人伝の影響は受けていないことになりますが…

原文:楽浪海中有倭人 分為百餘國 以歳時來献見云
如淳曰:如墨委面 在帶方東南萬里

『漢書』巻28 地理志 燕地条

如淳の注釈にある「如墨委面」の解釈は、原文を含めた倭についての認識に関わるため極めて重要です。

倭の由来は入れ墨説

倭の由来は入れ墨文化だと考える説。
「顔面に墨を委する風習が”倭”の由来である。」

如淳が誤記を修正した説

”委は倭の誤記”ということを伝える文だったと考える説。
「墨を委する風習から委人が正しい。」

如淳が誤記した説

如淳が倭を委と書き誤ったとする説。
「委人(本当は倭人と書きたかった)は顔に入れ墨している。」

国の名前説

国の名前で、如墨委を”やばい”と読み、魏志倭人伝でいう邪馬台国に相当すると解釈する説。
「如墨委(やばい)のことである。」

”従順な東の国”を強化する補足説

原文の一文前にある、東国は従順という文を補足する注釈だったと考える説。
「(委は”従う”という意味があることから)墨の如く従順な面をした人々。」

臣瓚の注釈

臣瓚は3~4世紀の西晋の学者とされています。
3~4世紀に存在した王賛4という人物が臣瓚の本名であるとする説もあります。

原文:楽浪海中有倭人 分為百餘國 以歳時來献見云
如淳曰:如墨委面 在帶方東南萬里
臣瓚曰:倭是國名 不謂用墨 故謂之委也

『漢書』巻28 地理志 燕地条

臣瓚の付けた注釈は、如淳の注釈をどう解釈したかでも意味合いが変わってきます。

如淳の注釈を「倭の由来は入れ墨説」とする場合

臣瓚の注釈は、如淳の注釈に対する訂正文説。
「倭は国の名前で、墨を用いたことではない。よって、”委(い)”と発音するのだ。」

如淳の注釈を受けたわけではない説

臣瓚の注釈は西晋時代の倭について記述した説。
「倭は国の名前である。(西晋時代は)墨を用いていない。昔は委と言った。」

故という字の解釈

「よって」と捉えるか、「昔は」と捉えるかで意味が変わります。

顔師古の注釈

顔師古(581~645年)は唐の学者です。
李承乾の命によって『漢書』の注釈を作成した顔師古は、北朝(旧注釈)を参考としています。

原文:楽浪海中有倭人 分為百餘國 以歳時來献見云
如淳曰:如墨委面 在帶方東南萬里
臣瓚曰:倭是國名 不謂用墨 故謂之委也
師古曰:如淳云『如墨委面』 蓋音委字耳 此音非也 倭音一戈反 今猶有倭國 魏略云倭在帶方東南大海中 依山島為國 度海千里 復有國 皆倭種

『漢書』巻28 地理志 燕地条

顔師古の付けた注釈は、細かい部分の解釈の違いはあれど、
”如淳が言う『如墨委面』は間違い。 反切のルールからこれは正しい音ではない。”
というように、概ね『如墨委面』の委と言う字は間違いということを指摘した文章であるという見解は一致しています。

また、魏略からの引用で、倭国の位置を記載しています。

倭の後の記述

倭については一文だけと言いましたが、実は次の文もかかわっている可能性があります。

自危四度至斗六度謂之析木之次燕之分也

『漢書』巻28 地理志 燕地条

これは天文(星)に関する記述と思われます。
楽浪郡から倭までの記述の最後に、主語が無く登場している一文のため、倭のことを指しているかどうかは不明です。
方角的には、素直に読むと北北東を指していることになるものの、どこから見た方角なのかも明記されていません。

主語は?

主語が省略されているため、複数の解釈説が出ている状態。
”危の4度から斗の6度”はどこから見て?楽浪郡?前漢の首都である長安(現在の西安市)?
”危の4度から斗の6度”の先にある地域は倭?楽浪郡?他の地域?


この記述を理解するには、『漢書』律暦志の次度に掲載されている二十八宿と十二次というものを知る必要があります。

二十八宿から引用した「危」と「斗」

「危」と「斗」は二十八宿を用いた記述と思われます。

二十八宿の図。漢書に記載された「危」と「斗」が関連する。
二十八宿(wikipediaより引用)

二十八宿は、天球を星宿と呼ばれるエリアに不均等に分割したもので、東西南北の4方角にそれぞれ7宿を配置した合計28宿から構成されます。

4方角を表す青龍(東)・玄武(北)・白虎(西)・朱雀(南)の四象が有名です。

注意点
卑弥呼が銅鏡を天に掲げる様子を再現したもの
南向きで天に掲げるイメージ(大阪府立弥生文化博物館より)

二十八宿は、南を向いて頭上に掲げると方角が一致します。
通常(北が上)方向で見ると東西が逆になる点は注意が必要です。

当時の天文学の知識は、現代とは異なる知識です。
ここで出てくる四度・六度という天文度は、円の1周として現在用いている360度基準ではなく、1太陽年での365度基準だとされています。

十二次から引用した「析木」

「析木」は十二次(天球を十二等分したもの)を用いた記述と思われます。

次の図と表は、『漢書』の律暦志・次度を基に二十八宿と十二次の対応させたものです。

十二次十二次二十八宿二十八宿
星紀十二度
牽牛初度
婺女七度
玄枵婺女八度
初度
十五度
娵訾十六度
営室十四度
四度
-(省略)
析木十度
七度
十一度
二十八宿と十二次の対応表。漢書の内容に関連する。
二十八宿と十二次の対応表(http://www.asahi-net.or.jp/~nr8c-ab/sgss_giI2_buntei2.htmより引用)

危の4度から斗の6度、析木の次

以上から、危の4度から斗の6度、析木の次という記述をどう捉えるべきかは研究者によって見解が異なります。
素直に受け止めると、北北東の位置に倭国があることになります

日本の公式見解?『古事類苑』

漢書地理志の内容については、『古事類苑』という明治政府が主導で編纂した日本唯一の官撰百科事典に意見が掲載されています。
明治政府が主導した史料であるため、日本の公式見解として扱う意見もあります。

「倭の字は、もともろこしの國よりつけたる名にて、その始めて見えたるは、前漢書地理志に、東夷天性柔順、異於三方之外、故孔子悼道不行、設桴於海、欲居九夷、有ル㠯也夫(ユヱカナ)、樂浪海中有倭人、分爲百餘國、㠯歲時來獻見云、といへる是なり、その後の書どもにも、みなかく倭人といひ、又はぶきて倭とのみもいへり、

さて倭とは、いかなる意にて名づけつるにか、その由はさだかに見えたる事はなけれども、かの漢書に、東夷天性柔順と書出して、有倭人とつらねいへるを思へば、班固が意は、說文に此倭ノ字の本義を順貌と注したると同じくて、柔順なる故に倭人とはいふと心得たるごとく聞ゆめり、されどそれも字につきてのおしはかりなるべし、」

『古事類苑』地部 倭条

古事類苑』の詳細は別途記事にしています。

注釈・参考資料など

  1. 紀元前206年~紀元後8年の中国王朝 ↩︎
  2. 班彪は紀元後3年生まれとされ、前漢が滅んだ紀元後8年までの5年ほどは前漢時代を生きています。 ↩︎
  3. 以下「如淳について」を参照。 ↩︎
  4. サイトによっては北宋の王賛(960年没)の説明を臣瓚として掲載していますが、顔師古(645年没)より前に注釈を付けていることから、この説の信憑性はかなり低いです。 ↩︎

如淳について

『大宋重修広韻』(1008年完成、漢字の読み方等をまとめた漢字辞典のようなもの)の「如」についての説明に如淳と思われる人物の記述があります。 

『大宋重修広韻』第244 小韻 如条
『大宋重修広韻』第244 小韻 如条

「而也均也似也謀也往也若也又姓晉中經部魏有陳郡丞馮翊如淳注漢書又畨姓後魏書如羅氏後改為如氏人諸切八」

『大宋重修広韻』第244 小韻 如条

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