古代中国王朝は、周辺諸国に印綬を授けて臣下と認めていました。
その印綬の一つである金印が、福岡県で見つかっています。
金印 基本データ

出土場所 | 福岡県福岡市東区志賀島 |
文字 | 漢委奴國王 |
制作時期 | 不明 |
制作者 | 不明 |
他の金印との比較
金印は古代中国王朝が制作したものなので、日本以外からも出土しています。
特に「漢委奴國王」の金印論争では、以下の2種がよく比較対象に挙げられます。
- 滇王之印
-
1956年に中国雲南省晋寧県で出土。
『史記』西南夷列伝の「(武帝が)賜滇王王印」の記述に合致。 - 廣陵王璽(こうりょうおうじ)
-
1981年2月24日に中国江蘇省揚州地区で出土。
『後漢書・明帝記』の「永平元年八月戊子徒三陽王荊爲廣陵王遣就國」とあり。
漢委奴國王 | 滇王之印 | 廣陵王璽 | |
---|---|---|---|
鈕(つまみ) | 蛇形 | 蛇形 | 亀形 |
印面の一辺の長さ | 右2.345cm 左2.349cm 平均2.347cm | 平均2.4 cm | 平均2.3cm |
印台の高さ ※鈕を除く | 平均0.887cm | 0.7cm | 0.9cm |
総高 | 2.236cm | 1.8~2cm ※記事により異なる | 2.1cm |
重さ | 108.729g | 90 g | 123g |
体積 | 6.0625cm³ | 詳細不明 | 詳細不明 |
材質 | 金95.1%、銀4.5%、銅0.5% その他(水銀等の不純物)1 | 金 95% その他(銀・銅)5% | 純金製 (詳細不明) |
発見場所と経緯
金印は、福岡県の陸繋島である志賀島(しかのしま)で江戸時代に発見されたとされています。
発見経緯の詳細は不明であり、断定出来ているわけではありません。
金印発見場所の志賀島
志賀島はもともとは島でしたが、九州本土との間に徐々に砂が溜まって陸続きとなった、陸繋島と呼ばれる土地です。
昭和5年の志賀島橋竣工当時は完全な陸続きになっておらず、潮が満ちると西戸崎と志賀島の間は海に沈んでいたという記録が残っています。
橋ができて橋脚に砂が溜まりはじめたことで、現在は完全な陸続きとなっています。
よって金印発見時(江戸時代)は、完全な陸続きではありませんでした。
ただし、干潮時は渡れた島だった可能性も、潮に関わらず徒歩では渡れない島だった可能性もあります。
志賀島のどこで金印が発見されたのか、発見場所は分かっていません。
島の南部と推定されて金印公園が作られている一方で、島の南西部にある叶ノ浜と推定する説もあります。
志賀島には縄文~古墳時代のものと推測される遺跡が数ヶ所ありますが、どれも国と呼べるほど大きなものではありません。
志賀島には金印を授かるほど大きな国はなく、他国が貰った金印が志賀島へ運ばれた説が有力です。
金印の発見経緯
金印の発見経緯は「甚兵衛の口上書」に書かれていますが、原本はなく大正時代の複製だけが残っているなど、内容が正しいかどうかは不明です。
『甚兵衛の口上書』

「甚兵衛の口上書」によると、天年4年2月23日(旧暦)に百姓が志賀島の叶の崎で金印を発見しました。
翌月の3月16日まで百姓が金印を保管していたようですが、その後は福岡藩(黒田藩)に渡っています。

『志賀島小幅』『万暦家内年鑑』の訂正
博多聖福寺・仙厓和尚の『志賀島小幅』(鍋島家所蔵)には「志賀島農民秀治・喜平 自叶崎掘出」との記述があります。


また、『万暦家内年鑑』(阿曇家所蔵)には、「天明4年2月23日、志賀島小路町秀治、田を墾し大石ノ下ヨリ金印を掘出」とあるようです。
この頃の農民などの名前は、主に寺が管理する過去帳や名寄帳に残されています。
寛政2年(1790年)5月の『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳(村方控)』(阿曇家所蔵)の全3冊のうちの中冊では、
・「孫次」を朱筆で抹消して、右側に「甚兵衛」
・「カツマ 藤十作」を抹消して、右側に「ヒロ 甚平作」(カツマは勝馬村、ヒロは弘村のこと)
といった箇所が見受けられるようですが、訂正前の文には甚兵衛の名はありません。
この田畠名寄帳は、金印が見つかった1784年から6年後の作成であるため、甚兵衛はこの間に死去した可能性もあり得ます。
『黒田新続家譜』に収録されている「斉清記」によれば、文化6年(1809年)3月8日に火災で110戸が延焼したという記述があり、志賀島の記録はここでほとんどが焼失したと言われています。
この火事は「甚兵衛火事」と呼ばれ、火元が甚兵衛だったらしく、これを機に甚兵衛は志賀島を去ったという伝承があります。
※福島県の甚兵衛火事とは別物であり、福島の甚兵衛は金印を見つけた人物とは別人の可能性が高いです。
『志賀島小幅』『万暦家内年鑑』『那珂郡志賀嶋村田畠名寄帳(村方控)』の3冊は、金印研究者・大谷光男氏の論文や講演などが出典であり、大谷氏が調べた結果として公表されています。
それぞれ鍋島家・阿曇家の所蔵品であり、基本的に一般公開はされていない模様。
そのため、本当にそうした記述があるのか(大谷氏の誤記・誤読等の可能性を含)という信憑性をネット上では担保できません。
当サイト管理人は、2025.01.16時点でこれらの原文を読めておらず、ネット上の出展不明の数記事を元に当記事を執筆しており、原文内容と相違ないという証拠を確認できていません。
金印発見時の関係者
- 百姓:甚兵衛
- 甚兵衛の兄:喜兵衛
- 福岡町家衆:米屋才蔵
- 郡奉行:津田源次郎
- 庄屋:長谷川武蔵
- 組頭:吉三と勘蔵
- 農民:秀治(口上書には登場しない)
口上書に登場する7人のうち、発見者の甚兵衛と兄の喜兵衛の実在は確認されていません。
田畑の所有者を記した「田畑名寄帳」などにも甚兵衛の名はありません。
他の5人や口上書に出てこない秀治は、寺の過去帳などで実在が確認されているようです。
(実在確認できているらしいですが、当サイト管理人は2025.01.16時点で証拠を確認できていません)
志賀島村の臨済宗東福寺派蓮台山荘厳寺の岡方過去帳には、秀治・甚平の名はあるものの、甚兵衛の記録は無いようです。
金印鑑定
金印は発見後、亀井南冥(なんめい)という学者によって鑑定されました。
南冥は1743年生~1814年没の医者・儒学者です。
1784年、福岡藩は修猷館(東)と甘棠館(西)という2つの学問所をほぼ同時に開設します。
南冥は西の学問所・甘棠館の館長に任命されました。

甘棠館の開校日は明確な史料がありません。
地元には開校した四日後に金印が発見されたという言い伝えがある一方で、河村敬一著『亀井南冥小伝』では2月1日に甘棠館が開校したとされるなど、情報にバラつきがあります。
年月日 | 事象 |
---|---|
天明3年12月18日 | 甘棠館上棟式(塩屋勝利 著『亀井南冥と金印』2) |
天明4年2月1日 | 甘棠館開校(河村敬一 著『亀井南冥小伝』) |
天明4年2月6日 | 修猷館開校(河村敬一 著『亀井南冥小伝』) |
天明4年2月19日 | 甘棠館、修猷館が同時開校(地元の伝承3) 甘棠館落成開館式(塩屋勝利 著『亀井南冥と金印』) |
天明4年2月23日 | 金印発見 |
そんな修猷館と甘棠館の両校に対して、福岡藩は金印に関する論文の提出を命じました。
甘棠館は亀井南冥が『金印弁』を、修猷館は館長の竹田定良を筆頭とする5名の連署で『金印議』を提出します。
しかし『金印弁』の方が提出が早いうえ内容も良かったため、亀井南冥の説が広く採用されています。
脚注
- 材質は福岡市立歴史資料館が1990年3月31日に発行した『研究報告14』の中の論文「金印その他の蛍光X線分析」によります。国立国会図書館にて閲覧可能です。該当論文@国立国会図書館 ↩︎
- 大谷光男 編著『金印研究論文集成』(新人物往来社)内に収容されている ↩︎
- 石村萬盛堂:https://www.ishimura.co.jp/saijiki/11_20/vol_17.html ↩︎
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