邪馬台国論争に欠かせない金印の発見経緯は「甚兵衛の口上書」という史料に記載されています。
金印の真贋論争にも関わる、極めて重要な金印研究史料です。
『甚兵衛の口上書』とは?
著者 | 長谷川武蔵(ぶぞう) |
成立年 | 1784年5月5日 |
現存史料 | 現存しない(複製品の現存説はアリ) |
『甚兵衛の口上書』とは、『百姓甚兵衛口上書』や『那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上る口上之覚』とも言わる金印の発見経緯が書かれた公文書です。
現在は所在不明となっています。
大谷光男氏の著書による情報
有名な甚兵衛の口上書は現在のところ所在不明であるが、筆者が中島利一郎氏の存命中、昭和三十一年に拝見した際には、上質な半紙(楮)に天地二四・五センチ、紙幅一〇三センチをはかる。
大谷光男編『金印研究論文集成』内収蔵 大谷光男著「漢委奴国王の金印」より
(…中略…)
口上書は三枚にわたって、長谷川武蔵によって書き留められていた。
包紙には「天明四年志賀島村百姓甚兵衛金印掘出候付口上書」とある。
その際に撮った口上書のフィルムなどは、九州大学教授であった岡崎敬氏に、現地であるのでという理由で差し上げた。
現状、甚兵衛の口上書の出典は辿っていくと全て大谷氏の著書・講演となっています。
そのため甚兵衛の口上書を引用する際には、信憑性などに気を付ける必要があります。
内容

那珂郡志賀島村百姓甚兵衛申上ル口上之覚
私抱田地叶の崎と申所田境之中溝水行悪敷御坐候ニ付、先月廿三日2、右之溝形ヲ仕直シ可申迚岸を切落シ居候処、小キ石段々出候内弐人持程之石有之、かな手子ニ而堀除ケ申候之処、石之間ニ光候物有之ニ付、取上水ニ而ス々キ上見候処、金之印判之様成物ニ而御坐候、私共見申タル儀モ無御坐品ニ御坐候間、私兄喜兵衛以前奉公仕居申候福岡町家之方ヘ持参リ、喜兵衛 見セ申候へハ、大切成品之由被申候ニ付、其儘直シ置候処、昨十五日庄屋殿、右之品3早速御役所江差出候様被申付候間、則差出申上候、何レ宜様被仰付可被為下候、奉願上候、以上
志賀島村百姓 甚兵衛 印天年四年三月十六日4
津田源次郎様
御役所右甚兵衛申候通少モ相違無御坐候、右体之品掘出候ハ 不差置、速ニ可申出儀ニ御座坐候処うかと奉存、市中風説モ御坐候迄指出不申上候段、不念千万可申上様も無御坐、奉恐入候、何分共宜様被仰付可被為下願、奉願上候、以上
『甚兵衛の口上書』大谷光男編『金印研究論文集成』より
同村庄屋 武蔵
同年同月 日 組頭 吉三
同 勘蔵
津田源次郎様
御役所
甚兵衛自身が作業していたとは書いていない
百姓・甚兵衛は「私が所有する田地」で見つかったとしていて、甚兵衛自身が作業していたとは書いていません。
甚兵衛は土地の所有者で、発見者は別人という説もあります。
誰が発見した?明確な記載がない。
甚兵衛のハンコしかない
甚兵衛の名前の上に、印と言う字が記載された円(㊞:←環境依存文字のため表示できない場合アリ)が見られます。これは大正時代に複製した際に押されたハンコと思われますが、一方で組頭などの名前にはハンコがありません。
原文でも印が無かったのか、複製時の押印漏れかは分かりません。
甚兵衛だけ押印されている理由は?
甚兵衛は実在したのか
同じく金印発見経緯を記している『志賀島小幅』には、甚兵衛の名前が登場しません。

また、当時の名寄帳(土地の持ち主の一覧)にも甚兵衛の名前が登場しません。
よって、甚兵衛という人物が実在したのかどうかは議論が必要です。
まとめ
『甚兵衛の口上書』は金印の当事者とその関係者が記載しているため、信憑性があるとする見方もできます。
しかし、史料を直接見た人物はほとんどおらず、大谷氏の各著書・講演などが出典となっていることから信憑性には疑問も生じます。
甚兵衛という人物の実在有無など怪しい点もあるため、『甚兵衛の口上書』の引用時はしっかり研究して、各論点に対して明確な理由付けをする必要があります。
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