『南史』は439~589年の中国のことを記述している史料ですが、倭に関する記述もあります。
ただし成立時期が時代的に離れているため、邪馬台国論争の史料として使えるかどうかの議論から必要になります。
南史とは
南史は、本紀10巻・列伝70巻からなる、中国の南北朝時代の南朝側についての歴史書です。
卷79 列伝第69 夷貊下には中国周辺の国について記述されており、その中には倭に関する記述もあります。
史料データ
著者 | 李大師(編纂開始)、李延寿(完成) |
成立年 | 644年頃 |
李大師、李延寿はどちらも唐の歴史家で、李大師は李延寿の父に当たります。
父の李大師は、編年体の南北朝通史の執筆を構想して編纂していたものの、完成できないまま628年に死去。
後を継いだ子の李延寿は、16年かけて(つまり644年頃)『南史』と『北史』を完成させたとされています。
『南史』が正史として認められたのは659年です。
子の李延寿は、『隋書』や『晋書』の編纂にも関わっています。
出典
原文を読む@维基文库
2025.02.17 閲覧確認
信憑性
- 他の書物にない記述があり貴重。
- 起こった事象について重点的に記述している。
- 詔令や上奏文といった正式・公式系の記述が少ない。
- 倭に関しては宋書・梁書に似ているが異なる記述もある。
南史は他の書物にない記述があり、貴重な史料として扱われます。
逆に『南史』と『北史』にしかない記述は、内容の信憑性に難があるとの見方もあります。
内容
ここからは、南史の中でも倭に関する記述のみ抜粋してご紹介します。
倭人
倭國 其先所出及所在 事詳《北史》 其官有伊支馬 次曰彌馬獲支 次曰奴往鞮 人種禾・稻・紵・麻 蠶桑織績 有姜・桂・橘・椒・蘇 出黑雉・真珠・青玉 有獸如牛名山鼠 又有大蛇吞此獸 蛇皮堅不可斫 其上有孔 乍開乍閉 時或有光 射中而蛇則死矣 物產略與儋耳・朱崖同 地氣溫暖 風俗不淫 男女皆露髫 富貴者以錦繡雜采為帽 似中國胡公頭 食飲用籩豆 其死有棺無槨 封土作塚 人性皆嗜酒 俗不知正歲 多壽考 或至八九十 或至百歲 其俗女多男少 貴者至四五妻 賤者猶至兩三妻 婦人不媱妒 無盜竊 少諍訟 若犯法 輕者沒其妻子 重則滅其宗族
晉安帝時 有倭王贊遣使朝貢 及宋武帝永初二年 詔曰:「倭贊遠誠宜甄 可賜除授 」文帝元嘉二年 贊又遣司馬曹達奉表獻方物 贊死 弟珍立 遣使貢獻 自稱使持節・都督倭百濟新羅任那秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭國王 表求除正 詔除安東將軍・倭國王 珍又求除正倭洧等十三人平西・征虜・冠軍・輔國將軍等號 詔並聽之 二十年 倭國王濟遣使奉獻 復以為安東將軍・倭國王 二十八年 加使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事 安東將軍如故;並除所上二十三人職 濟死 世子興遣使貢獻 孝武大明六年 詔授興安東將軍・倭國王 興死 弟武立 自稱使持節・都督倭百濟新羅任那加羅秦韓慕韓七國諸軍事・安東大將軍・倭國王 順帝昇明二年 遣使上表 言:「自昔祖禰 躬擐甲胄 跋涉山川 不遑寧處 東征毛人五十五國 西服眾夷六十六國 陵平海北九十五國 王道融泰 廓土遐畿 累葉朝宗 不愆於歲 道徑百濟 裝飾船舫 而句麗無道 圖欲見吞 臣亡考濟方欲大舉 奄喪父兄 使垂成之功 不獲一簣 今欲練兵申父兄之志 竊自假開府儀同三司 其餘咸各假授 以勸忠節」 詔除武使持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・安東大將軍・倭王 齊建元中 除武持節・都督倭新羅任那加羅秦韓慕韓六國諸軍事・鎮東大將軍 梁武帝即位 進武號征東大將軍
其南有侏儒國 人長四尺 又南有黑齒國・裸國 去倭四千餘里 船行可一年至 又西南萬里有海人 身黑眼白 裸而醜 其肉美 行者或射而食之
文身國在倭東北七千餘里 人體有文如獸 其額上有三文 文直者貴 文小者賤 土俗歡樂 物豐而賤 行客不齎糧 有屋宇 無城郭 國王所居 飾以金銀珍麗 繞屋為塹 廣一丈 實以水銀 雨則流于水銀之上 市用珍寶 犯輕罪者則鞭杖 犯死罪則置猛獸食之 有枉則獸避而不食 經宿則赦之
大漢國在文身國東五千餘里 無兵戈 不攻戰 風俗並與文身國同而言語異
『南史』卷79 列伝第69 夷貊下
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