『隋書』は581~618年の中国王朝・隋のことを記述している史料ですが、倭や卑弥呼に関する記述もあります。
ただし成立時期が時代的に離れているため、邪馬台国論争の史料として使えるかどうかの議論から必要になります。
隋書とは
隋書は、本紀5巻・志30巻・列伝50巻からなる、中国の隋時代についての歴史書です。
第81巻 列伝第46 東夷には中国周辺の国について記述されており、その中には倭に関する記述もあります。
史料データ
著者 | 魏徴、顔師古ら複数人で編纂(本紀・列伝)、長孫無忌(志) |
成立年 | 636年(本紀・列伝)、656年(志) |
隋書は、唐の第2代皇帝・太宗の命により編纂されました。
複数人で編纂されているほか、志が後から編入されるなど、他の史料とは少し異なる作り方になっています。
編纂者の一人である顔師古は、漢書の注釈を書いている人物です。
出典
原文を読む@维基文库
2025.02.17 閲覧確認
信憑性
- 基本は隋時代の断代史だが、(特に志は)南朝梁~隋時代を幅広く扱う。
- 他史料には記述がない靺鞨・琉求国の話など国外情報にも詳しい。
- 誤字と思われる記述がところどころある。
- 古い時代の話をベースにしつつ隋時代の情報を更新しているので、記載時代の判別が難しい。
隋書は隋時代の中国内だけでなく、国外についても詳しく書かれています。
そのため特に中国以外の国については、情報を一気に更新されている部分もあります。
しかし邪馬台国研究においては、隋時代の情報は使えないので参照できる部分が限られます。
隋書には三国志からの引用で卑弥呼や邪馬台国の話がありますが、どこまでが隋時代の話で、どこまでが後漢書や三国志時代の話のままなのかを慎重に見極めなければなりません。
内容
ここからは、隋書の中でも倭に関する記述のみ抜粋してご紹介します。
倭国
俀國在百濟新羅東南水陸三千里於大海之中依山㠀
而居魏時譯通中國三十餘國皆自稱王夷人不知里數
但計以日其國境東西五月行南北三月行各至於海其
地勢東髙西下都於邪靡堆則魏志所謂邪馬臺者也古
云去樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里在會稽之東與
儋耳相近漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使
朝貢謂之俀奴國桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無
主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王
有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有
男子二人給王飮食通傳言語其王有宮室櫻觀城柵皆
持兵守衞爲法甚嚴自魏至于齊梁代與中國相通開皇二十年俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣
闕上令所司訪其風俗使者言俀王以天爲兄以日爲弟
天未明時出聽政跏趺坐日出便停理務云委我弟髙祖
曰此大無義理於是訓令改之王妻號雞彌後宮有女六
七百人名太子爲利歌彌多弗利無城郭内官有十二等
一曰大徳次小徳次大仁次小仁次大義次小義次大禮
次小禮次大智次小智次大信次小信員無定數有軍尼
一百二十人猶中國牧宰八十戸置一伊尼翼如今里長
也十伊尼翼屬一軍尼其服飾男子衣裠襦其袖微小履
如屨形漆其上繋之於脚人庶多跣足不得用金銀爲
飾故時衣横幅結束相連而無縫頭亦無冠但垂髮於兩
耳上至隋其王始制冠以綿綵爲之以金銀鏤花爲飾婦
人束髮於後亦衣裠襦裳皆有襈攕竹爲梳編草爲薦雜
皮爲表縁以文皮有弓矢刀矟弩𥎞斧漆皮爲甲骨爲矢
鏑雖有兵無征戰其王朝會必陳設儀杖奏其國樂戸可
十萬其俗殺人強盗及姦皆死盗者計贓酬物無財者没
身爲奴自餘輕重或流或杖毎訊究獄訟不承引者以木
壓膝或張強弓以弦鋸其項或置小石於沸湯中令所競
者探之云理曲者即手爛或置蛇瓮中令取之云曲者即
螫手矣人頗恬静罕争訟少盗賊樂有五絃琴笛男女多
黥臂點面文身没水捕魚無文字唯刻木結繩敬佛法於
百濟求得佛經始有文字知卜筮尤信巫覡毎至正月一
日必射戲飮酒其餘節畧與華同好其博握塑檽浦之戲
氣候温暖草木冬青土地膏腴水多陸少以小環挂鸕鷀
項令入水捕魚日得百餘頭俗無盤俎藉以檞葉食用手
餔之性質直有雅風女多男少婚嫁不取同姓男女相恱
者即爲婚婦入夫家必先跨火乃與夫相見婦人不淫妬
死者斂以棺槨親賓就屍歌舞妻子兄弟以白布製服貴
人三年殯於外庶人卜日而瘞及葬置屍船上陸地牽之
或以小轝有阿蘇山其石無故火起接天者俗以爲異因
行祷祭有如意寶珠其色青大如鷄卵夜則有光云魚眼
精也新羅百濟皆以俀爲大國多珎物並敬仰之恒通使
徃來大業三年其王多利思北孤遣使朝貢使者曰聞海
西菩薩天子重與佛法故遣朝拜兼沙門數十人來學佛
法其國書曰日出處天子致書日没處天子無恙云云帝
覽之不恱謂鴻臚卿曰蠻夷書有無禮者勿復以聞明年
上遣文林郎裴清使於俀國度百濟行至竹島南望𨈭羅
國經都斯麻國逈在大海中又東至一支國又至竹斯國
又東至秦王國其人同於華夏以爲夷洲疑不能明也又
經十餘國達於海岸自竹斯國以東皆附庸於俀俀王遣
小徳阿輩臺從數百人設儀杖鳴鼓角來迎後十日又遣
大禮哥多毗從二百餘騎郊勞既至彼都其王與清相見
大恱曰我聞海西有大隋禮義之國故遣朝貢我夷人僻
在海隈不聞禮義是以稽留境内不即相見今故清道飾
舘以待大使冀聞大國惟新之化清答曰皇帝徳並二儀
澤流四海以王慕化故遣行人來此宣諭既而引清就舘
其後清遣人謂其王曰朝命既達請即戒塗於是設宴享
以遣清復令使者隨清來貢方物此後遂絶史臣曰:廣谷大川異制 人生其間異俗 嗜欲不同 言語不通 聖人因時設教 所以達其志而通其俗也 九夷所居 與中夏懸隔 然天性柔順 無獷暴之風 雖緜邈山海 而易以道御 夏・殷之代 時或來王 暨箕子避地朝鮮 始有八條之禁 疎而不漏 簡而可久 化之所感 千載不絕 今遼東諸國 或衣服參冠冕之容 或飲食有俎豆之器 好尚經術 愛樂文史 遊學於京都者 往來繼路 或亡沒不歸 非先哲之遺風 其孰能致於斯也?故孔子曰:「言忠信 行篤敬 雖蠻貊之邦行矣 」誠哉斯言 其俗之可採者 豈徒楛矢之貢而已乎?自高祖撫有周餘 惠此中國 開皇之末 方事遼左 天時不利 師遂無功 二代承基 志包宇宙 頻踐三韓之域 屢發千鈞之弩 小國懼亡 敢同困獸 兵連不戢 四海騷然 遂以土崩 喪身滅國 兵志有之曰:「務廣德者昌 務廣地者亡 」然遼東之地 不列於郡縣久矣 諸國朝正奉貢 無闕於歲時 二代震而矜之 以為人莫若己 不能懷以文德 遽動干戈 內恃富強 外思廣地 以驕取怨 以怒興師 若此而不亡 自古未之聞也 然則四夷之戒 安可不深念哉!
『隋書』第81巻 列伝第46 東夷
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