卑弥呼は、言わずと知れた邪馬台国の女王です。
しかし、実在したかどうかを含め、どんな人物だったのかは詳しく分かっていません。
このページでは、卑弥呼について分かっていることや、いろいろな人物比定説を紹介します。
「卑弥呼」の読み方
そもそも卑弥呼の漢字は、歴史書によって微妙に異なる漢字が使われています。
そのため、異なる漢字の人物たちが同一人物かどうかという議論から必要になってきます。
一般論では全て同一人物を指しており、一番使用頻度が高い「卑弥呼」という漢字を用います。
卑弥呼の字 | 史料 |
---|---|
卑彌呼 | 『三国志』魏書東夷伝 『後漢書』東夷傳 『隋書』東夷 倭國 『梁書』諸夷伝 |
卑彌乎 | 『三国史記』新羅本紀 |
俾彌呼 | 『三国志』魏書三少帝紀 |
厄介な点として、同じ『三国志』の中でも漢字が統一されていません。
「卑弥呼」の読み方
日本語で「卑弥呼」は一般的に”ひみこ”と読まれます。
他にも、”ひめこ”や”ひみほ”など、読み方には説が複数あります。
当時の日本・中国それぞれの発音に加え、各地の方言も考慮すると、どういった発音が正しいかを特定するのは容易ではありません。
上古音:pieg-mier-hag
中古音:pie-mie-ho
魏書東夷伝の「卑弥呼」は現代中国語では以下のように発音されます。
音韻:Bēi mí hū
「俾彌呼」の読み方
魏書三少帝紀の「俾彌呼」を現代中国語で発音すると以下のように発音されます。
音韻:Bǐ mí hū
魏志倭人伝(魏書)による列伝

東夷伝
魏志倭人伝とは、三国志魏志の中の1書である東夷伝のことを指しています。
詳しくは魏志倭人伝についての解説記事を参照してください。
その東夷伝に記述された内容は以下の通りです。
人物像

卑弥呼は倭の国の女王と思われます。
宮殿に籠ってほとんど姿を見せることはなく、鬼道を使って国をまとめていたようです。
乃共立一女子為王。名曰卑彌呼。事鬼道能惑衆。
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
年已長大無夫婿、有男弟佐治国。自為王以来、少有見者。以婢千人自侍。
唯有男子一人、給飲食伝辞出入居処。
宮室楼観、城柵厳設、常有人持兵守衛。
卑弥呼はあくまで倭国の女王であり、邪馬台国の女王だったと明記されているわけではありません。
魏志倭人伝の「南至邪馬壹国女王之所都」という記述から邪馬台国に女王がいたことが分かります。
しかしその後は倭国の気候や風土などの話が続き、しばらく女王も邪馬台国も登場しません。
いわゆる”倭国大乱”の話で再度女王という文字が登場し、名前が卑弥呼と明かされますが、邪馬台国という文字は出てきません。
ここで言う女王・卑弥呼は邪馬台国の女王を指しているという考えが定説です。
一方で、卑弥呼は邪馬台国とは別の倭の国の女王であって、邪馬台国の女王とは別人とする説も存在します。
また、卑弥呼の殉葬者は100人ほどであり、大きな権力者であったことも分かります。
墓についての詳細は後述します。
卑弥呼に関して分かっていることは、実はこれだけです。
元々王族だったのか、巫女のようなことができたことで村人から王まで上り詰めたのか…
豪華な服装だったのか、質素な身なりだったのか…
どういった性格だったのか…など、人物像として詳しいことは不明です。
なお、よく見る卑弥呼の肖像画は、1968年に安田靫彦が発表した作品であって、弥生時代近辺に描かれたものではありません。
参考:滋賀県立近代美術館公式ブログ

功績
卑弥呼は中国の魏国に使者を送り、友好または主従(関係性は諸説あり)関係を築いたようです。
景初二年六月、倭女王遣大夫難升米等詣郡、求詣天子朝献。太守劉夏、遣吏将送詣京都。
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
其年十二月、詔書報倭女王曰
「制詔親魏倭王卑彌呼:帯方太守劉夏遣使送汝大夫難升米(…以下略…)
景初二年に倭女王が魏に使者を出しています。
正始元年と正始四年にも「倭王」が使者を出して朝貢した記述がありますが、「女王」は登場しません。
正始八年には、再び倭女王が登場します。
正始元年と正始四年の使者は、前後の文の流れから倭王=女王が定説です。
一方で、女王とは意図的に区別した記述であり、卑弥呼以外の倭国の王が使者を出したとする説もあります。

其八年、太守王頎到官。倭女王卑彌呼與狗奴国男王卑彌弓呼素不和。
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
三少帝紀
東夷伝と同じく三国志魏志の中の1書である三少帝紀にも、一文だけですが卑弥呼の記述があります。
影響が少ないこともあり、各論説では意図的に無視したり記述自体を知らずに触れないことも多い一文です。
冬十二月倭國女王俾彌呼遣使奉獻
『三国志』魏書 巻4 三少帝紀
先述の通り東夷伝にて、正始四年に倭王が使者を送ってきたという記述がありますが、女王とは明記されていませんでした。
一方の三少帝紀では、正始四年に「俾彌呼」が使者を送ってきたことになっています。
このことから以下2説が出ますが、一般的には「俾彌呼」は卑弥呼と同一とする考えが定説です。
- 俾彌呼 = 卑弥呼の同一人物説
-
正始四年に使者を送った倭王は女王を指す説。
- 俾彌呼と卑弥呼は別人説
-
実は「ひみこ」は巫女などの役職名であり、倭の各国に存在した。
正始四年に使者を送った倭王は女王とは別人であり、倭王の国の「ひみこ」と女王の国の「ひみこ」がそれぞれ使者を送ってきたとする説。
魏書以外での列伝
実は魏書以外にも、卑弥呼が登場する歴史書は存在します。
しかし、どれも魏書の内容を参照・引用していると思われ、原文である魏書の内容が重要という考えが一般的です。
特に卑弥呼の話においては、魏書以外の史料はあまり価値が無いとされています。
また当サイトでは、各書は詳細を別記事にしてあります。
そのためここでは、原文の紹介にとどめておきますので、詳細は各記事を参照してください。
後漢書
桓靈間倭國大亂 更相攻伐歴年無主 有一女子名曰卑彌呼
『後漢書』巻85 東夷列伝 倭条
年長不嫁事鬼神道能以妖惑衆 於是共立為王 侍婢千人 少有見者
唯有男子一人給飲食傳辭語 居處宮室樓觀城柵皆持兵守衛 法俗厳峻
自女王國東度海千餘里至拘奴國 雖皆倭種而不屬女王
梁書
漢靈帝光和中,倭國亂,相攻伐歷年,乃共立一女子卑彌呼為王。彌呼無夫婿,挾鬼道,能惑眾,故國人立之。有男弟佐治國。自為王,少有見者,以婢千人自侍,唯使一男子出入傳教令。所處宮室,常有兵守衛。至魏景初三年,公孫淵誅後,卑彌呼始遣使朝貢,魏以為親魏王,假金印紫綬。正始中,卑彌呼死,更立男王,國中不服,更相誅殺,復立卑彌呼宗女臺與為王。
『梁書』巻54 列傳第48 諸夷 海南諸國 東夷 西北諸戎
隋書
漢光武時遣使入朝自稱大夫安帝時又遣使
『隋書』
朝貢謂之俀奴國桓靈之間其國大亂遞相攻伐歴年無
主有女子名卑彌呼能以鬼道惑衆於是國人共立爲王
有男弟佐卑彌理國其王有侍婢千人罕有見其面者唯有
男子二人給王飮食通傳言語其王有宮室櫻觀城柵皆
持兵守衞
三国史記
二十年、夏五月、倭女王卑彌乎遣使來聘。
『三国史記』新羅本紀 第2 阿達羅尼師今条
卑弥呼の死
「以死」の解釈
魏志倭人伝の「卑彌呼以死」をどう解釈するかで、卑弥呼の死因や死亡時期の推定が変わります。
其八年
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
太守王頎到官
倭女王卑弥呼與狗奴国男王卑弥弓呼素不和
遣倭載斯烏越等詣郡説相攻擊状
遣塞曹掾史張政等因齎詔書黃幢拝假難升米為檄告諭之
卑彌呼以死大作冢径百余歩殉葬者百余人
- 以と言う字に特に意味はない説
-
以と言う字は、卑弥呼が死んで、のように単なる接続詞的な扱いという考え。
- 死を以って、と読む説
-
卑弥呼が死んだことで墓を作った、という意味。
- (魏志倭人伝の原文には句読点が無いので)卑彌呼以死は前の文にかかっている説(1)
-
よって死す、と読む説。
狗奴国の男王卑弥弓呼との争いで死んだ、あるいは、難升米の告諭によって死んだという考え。 - (魏志倭人伝の原文には句読点が無いので)卑彌呼以死は前の文にかかっている説(2)
-
既に死す、と読む説。
つまり、難升米が詔書・黄幢を受け取り檄で告諭したが、既に卑弥呼は死んでいた。
一般的に”その八年”のくだりは「告諭之」までで、次の「卑彌呼以死」は”その八年”のくだりとは別件と考えられています。
皆既日食に関連した説
卑弥呼が死亡したとされる頃に、日本では皆既日食が観測できました。
卑弥呼は”鬼道に仕えて民衆をよく惑わす”など巫女・シャーマンのような働きをしていたと考える説があります。
その卑弥呼が亡くなった直後に日食が起きたことで民衆が恐れた、あるいは、日食が起こったことで卑弥呼の巫女としての力が弱くなったとみなされて殺された(クーデターが起きた)とする説です。
しかし、247年の日食で皆既だったのは朝鮮半島から対馬まで、248年の日食で皆既だったのは能登半島~福島県までという見方が有力です。
邪馬台国論争の二大拠点である九州と畿内では、部分日食こそあれど皆既日食の観測はできなかった可能性が高いのが事実。
よって、皆既日食がどこまで卑弥呼の死に影響しているかは不明です。

墓
卑弥呼は直径100歩あまりの大きな塚を墓とし、殉葬者が100人ほどいた、とされています。
卑彌呼以死、大作冢。径百余歩。殉葬者百余人。
『三国志』魏書 巻30 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
なお、この塚が古墳だったとは限りません。
というのも、2024年現在、日本の主要な古墳からは殉葬の痕跡が発見されていません。
つまり、殉葬者がいたということは大きな古墳ではない可能性があります。
ただしこれは、大きい古墳ほど発掘調査が進んでいない(調査制限などがある)だけで、調べれば痕跡が見つかる可能性は十分にあり得ます。
形

「径」という表現から円墳であると考えられていますが、弥生時代の築造的には楕円墳や方墳の可能性もあり得ます。
前方後円墳とする説もあるものの、なぜ円墳部分の大きさだけ記述したのか、あるいは前方後円墳全体の大きさを径という字で表したのか、という点は説明が必要です。
大きさ
「百余歩」の余歩がどの程度かで細かい大きさが変わりますが、大きく3種類の説に分かれます。
説 | 一歩 | 墓の径 |
---|---|---|
短里説 | 0.3m | 30~40m前後 |
歩幅説 | 0.6m | 60~80m前後 |
長里説 | 1.4m | 140~160m前後 |
- 短里説
-
倭韓地方を中心とした独自の計測方法であるとする説。
- 歩幅説
-
実際に100歩程度を歩いてみた大きさと考える説。
成人男性の歩幅が60~70cmであることから、墓の径は100歩程度を歩いた60~80mほどになります。似たような説として、足の大きさ100歩分とする説もあります。
しかし、これでは足の大きさを25cmとすると墓の径は25mになってしまいます。
100人の殉葬者がいたことを踏まえると、25mでは小さすぎる気がします。 - 長里説
-
1歩=6尺とする尺貫法という考え方。
どの時代の長さ基準を用いるかは議論の余地があるが、概ね一歩を1.4m前後で仮定する。時代 周~前漢 新・後漢 魏 隋 唐 分(cm) – 0.2304 0.2412 0.2951 0.311 寸(cm) 2.25 2.304 2.412 2.951 3.11 尺(cm) 22.5 23.04 24.12 29.51 31.1 丈(m) 2.25 2.304 2.412 2.951 3.11 歩(m) 1.35 6尺
1.38246尺
1.44726尺
1.77065尺
1.555里(m) 405 300歩
414.72300歩
434.16300歩
531.18360歩
559.8角川漢和中辞典 より
墓は1つではない?
「大作冢」は大きな塚ではなく多数の塚の意味と解釈する説があります。
「徑百余歩徇葬者奴婢百余人」は径百余歩の範囲に殉葬者や奴婢百余人分の塚があるという考えです。
この考えでは、「卑弥呼以死 大作冢 徑百余歩 徇葬者奴婢百余人」は卑弥呼の死をもって多数の殉葬者が発生し、径100歩ほどの場所に殉葬者たちの塚が作られたと解釈します。
福岡県久留米市の祇園山古墳(3世紀中頃築造?)では、周囲に数十名分の集団墓が見つかっています。
こうした形で、古墳に直接殉葬者が埋葬されているわけではなく、古墳の周囲に小さく墓が作られている可能性もあります。
卑弥呼は何者か?
ここまでの内容を踏まえた定説では、卑弥呼は魏に使者を送り、倭の王として認められた存在です。
そのため、字のない当時の日本でも卑弥呼のことは伝承(口伝)として残されている可能性が高いと考えられます。
日本書紀や古事記をはじめとする、日本の古典史料に登場する人物が卑弥呼と同一人物であっても不思議ではありません。
そこで、卑弥呼は何者なのか、という論争が起こっています。
神功皇后説
舎人親王は、『日本書紀』の中で「卑弥呼と神功皇后が同一人物」とする記述を認めています。
詳細は別記事にまとめていますので、以下を参照してください。
天照大神説
岩戸隠れ伝説における天照大神は、卑弥呼のことではないかとする説があります。
さらに岩戸隠れ伝説は、皆既日食が関わるとの指摘もあります。
卑弥呼没頃に日本近辺で皆既日食が起こった可能性が高いです。

倭迹迹日百襲媛命説
第7代・孝霊天皇の皇女・倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと)とする説です。
『日本書紀』では倭迹迹日百襲姫命または倭迹迹姫命、『古事記』では夜麻登登母母曾毘賣命と書かれています。
なお倭迹迹日百襲姫命の墓は、箸墓古墳です。
女酋・豪族説(偽王朝説)
この説はさらに、熊襲説や九州の豪族説など細かく分かれますが、共通することは、倭国をまとめる一国の王と言うわけではなく、豪族など一部地域の王であったとする説です。
特に特徴的な説として、もともと畿内に朝廷があったものの、その朝廷は中国とはやり取りしていないという偽王朝説があります。
九州の熊襲や一部地域の豪族などが朝廷を名乗り、偽の卑弥呼として中国とやり取りをしていたという説です。
この場合、豪族たちは卑弥呼の名前を借りただけなのか、嘘をついて邪馬台国や朝廷だと自称したのか、などでも解釈が変わります。
「国の場所については嘘をついておらず、魏志倭人伝は九州について記述している。しかし本物の朝廷は畿内にあった」とする考えや、
「場所自体も嘘をついており、魏志倭人伝の内容も実態も畿内を指しているが、使者を送ったのは豪族(熊襲)」という考えなど、さまざまに分かれています。
- 良い点
-
魏志倭人伝の内容と出土品等の実態が合わないことに関する説明を付けやすいです。
例えば、仮に卑弥呼が貰った金印が九州から見つかって九州説が正解だったとしても、畿内に沢山ある大型古墳の存在もまた事実です。
九州説では通常、卑弥呼たちが九州にいたのになぜ機内に大型古墳が多くあるのかを説明しなければなりません。しかし偽王朝説では、金印を貰ったのは九州の偽王朝であり、畿内の古墳は本物の王朝のものだ、といった説明が可能です。
- 悪い点
-
偽王朝として何十年も騙しきることができるかは少々疑問です。
実在しない説
卑弥呼は実在しなかったとする説もあります。
理由はいくつかありますが、全てをまとめて1つの根拠にしているわけではなく、説によって採用する理由が異なります。
単に証拠がないから
「親魏倭王」の金印を中国からもらうほどの女王ながら、長い間史跡(遺跡)が見つかっていません。
また、それだけの功績ならば墓や国の場所も口伝や伝説の話として残っていてもおかしくないですが、それもありません。
さらに、『日本書紀』をはじめとする古典史料には、卑弥呼以前の歴史が書かれていても卑弥呼に関する記述がありません。
よって、単純に長い間証拠が出ないため、実は卑弥呼は存在しなかったとする説です。
戦略的なでっち上げ
卑弥呼が朝貢し始めた景初二年(238年)当時の中国は、魏呉蜀の三国時代です。
さらにその三国もそれぞれの国内に豪族をいくつも抱えている状況で、魏呉蜀を中心に絶えず戦争が行われていました。
一方で、中国周辺には鮮卑や高句麗といった力のある勢力が東西南北にあり、三国はそういった国と戦争や外交を実施しています。
魏は、蜀(西方)に対抗するため、クシャーナ朝(中央アジア・北インド)に金印を送っています。
同様に、呉(南方)に対抗する必要があったものの、呉が東方の海に逃げてしまえば魏に勝ち目がありません。
(赤壁の戦いにて海戦があったが、魏は呉に大敗しています。もともと魏は経験が少ないなどの理由から海戦が得意ではありません。)
そのために、東の海の向こうにいる倭国を味方につけて呉が海へ逃げられないようにすべく、話をでっち上げたと考える説です。
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