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対海国(対馬)

対海国(対馬)

邪馬台国までの道中で登場する対海国。
魏志倭人伝をはじめいくつかの史料に登場するものの、国名の漢字が異なります。

対海国とはどんな国なのか、有力な対馬説を軸にまとめました。

目次

「対海国」か「対馬国」か

1海国は、魏志倭人伝をはじめ、いくつかの史料に登場します。
しかし国名は史料ごとに異なっており、どれが正しいか(あるいは当時は区別が無かったか)は不明です。
特に、島なのか国なのか一定しない点には注意が必要です。

国名史料
對海國(対海国)魏志倭人伝(紹熙本)
對馬國(対馬国)魏志倭人伝(紹興本)
翰苑(魏略からの引用)
對馬島延喜式
都斯麻國隋書
津島古事記
「対馬洲」「対馬嶋」「津嶋」と一定しない日本書紀
お断り

この記事では最善本に沿って、対海国という字を中心に扱っておくことにします。

魏志倭人伝

紹熙本

始度一海千余里至對海國

『三国志』巻30 魏志 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

紹興本

始度一海千余里至對馬國

『三国志』巻30 魏志 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

複数ある魏志倭人伝の版本のうち、一般的に最善本とされる紹熙本では對海國になっています。
一方で、現存する最古の版である紹興本では對馬國になっています。

翰苑(魏略)

翰苑では、魏略からの引用として「對馬國」という記述があります。

魏略曰
(…中略…)
始度一海 千餘里至對馬國

『翰苑』巻第30 蕃夷部 注釈より

魏略という史料は散佚しており、原本を読むことはできません。
しかし、魏略はいろいろな史料で引用されているため信用度の高い史料だったと推測されています。

隋書

邪馬台国当時のことを記述しているわけではありませんが、隋書・倭国伝では「都斯麻国」と表記されています。

明年 上遣文林郎裴清使於俀國 度百濟 行至竹㠀 南望聃羅國 經都斯麻國

『隋書』巻第81 列伝第46 東夷

對海・對馬という記載では読み方が分からず、(当時の発音として)”つみ”、”つま”、”どま”などの説も出ています。
しかし、少なくとも隋書が完成した7世紀には”つしま”という読み方があったことがうかがえます。

梁書

特徴的なこととして、梁書には対海国がなく、いきなり一支国(壱岐国)に辿り着く旅程となっています。
朝鮮半島→対馬→壱岐という旅程に関しては、どの邪馬台国比定地説でも大抵同じで、これは単なる脱文と考えられています。

從帶方至倭 循海水行 歷韓國 乍東乍南 七千餘里始度一海
海闊千餘里 名瀚海 至一支國

『梁書』卷第54 列伝第48 諸夷

対馬という漢字は後付け

現在は対馬という字を用いることから、海は間違いで馬が正しいとする見方がありますが、これは間違いです。

そもそも邪馬台国当時は日本に文字記録文化が無く、”つしま”という話し言葉はあっても、「対馬」という漢字は使用していないと考えられています2
日本において、対馬という漢字での地名は、邪馬台国より後の時代に決められたものです。
よって、中国側は”つしま”という話し言葉に”対馬”という字を当て字として使用した可能性が高いのです。

「話し言葉”つしま”に対して、中国が様々な当て字をし、後年に日本が対馬を採用した」
という流れが定説です。

対馬の成り立ち

現在の対馬島には元々、上県(かみつあがた)と下県(しもつあがた)の2国があったとされています。
大化の改新(645年)から大宝律令(701年制定)頃までの律令制度の一環で、この2国をまとめた対馬国が設けられました。

よって邪馬台国当時、本来は島の名前だった”つしま”を、中国(または朝鮮)が国の名前だと誤認した可能性があります。

日本人

ここは”つしま”(っていう島)だよ!

中国人

なるほど、”つしま”(という国)なのか!

また、対馬国が設けられた後とされる712年編纂の『古事記』の建国神話では、大八洲の1つとして「津島」が登場します。(「津島」は現在の対馬を指しているとする見方が一般的)

一方で、『日本書紀』の国産み神話では「対馬洲」「対馬嶋」「津嶋」と表記が一定しません。

このことから、律令制で設けられた”対馬”という漢字は、日本国内でも浸透していなかった可能性があります。

ここまでのまとめ

つしまという読み方が先で、漢字は後付け。
”つしま”にはいくつか当て字が使用されていたものの、結果現代まで残った漢字が「対馬」。
現在は「対馬」だから馬が正しいという見解は、順序が違うため間違い。

官名

魏志倭人伝によれば、対海国の大官は卑狗、副官は卑奴母離と呼んでいたようです。
ただし魏志倭人伝は句読点や段落がなく漢字が羅列してあるため、単語や文をどの文字で区切るかは不明です。
「卑奴が正しい官名で母離は個人名ではないか」とする説もあります。

其大官曰卑狗 副曰卑奴母離

『三国志』巻30 魏志 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

一方で翰苑(魏略)では、大官を卑狗、副官を卑奴と表記しています。
これは単なる脱字なのか、意図的な省略か、など議論の余地があります。

魏略曰
(…中略…)
其大官曰卑拘 副曰卑奴

『翰苑』巻第30 蕃夷部 注釈より
役職魏志倭人伝魏略
大官卑狗卑狗
副官卑奴母離卑奴

大きさや距離

領域は四百余里ほど

魏志倭人伝によれば、領域は四百余里ほどの絶島と紹介されています。

所居絶島方可四百余里

『三国志』巻30 魏志 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

現在の対馬は、南北に細長い形状の対馬島を主島として、100以上の小島を伴って形成されています。

対馬の周旋
対馬の周旋

面積が約700㎢ながら、リアス式海岸で入り組んだ地形をしており海岸線の総延長が約915㎞にもなります。

南北に約82km、東西に約18kmと細長い形が特徴です。
直線的に一周すると、82+18+82+18=約200(km)になります。

四百余里については、長里か短里か、さらにどの時代を基準にするか、などで解釈が変わります。
計算しやすく魏時代と隋時代の間を取って1里=500mとして計算してみると、500(m)×400(里)=200,000(m)=200(km)となり、ちょうど対馬の周旋と一致します。

時代周~前漢新・後漢
分(cm)0.23040.24120.29510.311
寸(cm)2.252.3042.4122.9513.11
尺(cm)22.523.0424.1229.5131.1
丈(m)2.252.3042.4122.9513.11
歩(m)1.356尺
1.3824
6尺
1.4472
6尺
1.7706
5尺
1.555
里(m)405300歩
414.72
300歩
434.16
300歩
531.18
360歩
559.8
角川漢和中辞典 より

太宰府から対馬まで、10世紀では海路4日

905~927年に作られた延喜式3(律令の施行細則をまとめた法典)によれば、対馬は大宰府からの海路行程は4日となっています。

對馬島 海路行程四日。

『延喜式』第24巻

延喜式・諸国駅伝馬条と呼ばれている部分には、新任国司の通過路線上に伝馬を置く郡が列挙されています。
陸路に関しては馬に乗った場合の日数が記述されている一方で、海路についてはどういった船を使ったのか等々、基準が不明瞭です。

邪馬台国の時代は西暦200年代であり、延喜式の時代からは600~700年ほど古い時代です。
延喜式の内容と比べると、邪馬台国の時代は道路や船が整備されていないなど条件が悪かったことが想像できます。

対馬から邪馬台国までの道程の研究材料になり得る情報ではあるものの、時代(条件)が異なりすぎるため史料としては価値が薄いとされます。

文化

基本的に町というよりは村に近い集落だったようです。

魏志倭人伝

険しい山と深林が多く、千余戸と小規模な集落だった模様。
良田がないため海産物を食べて生活し、船で南北に市糴(交易、主に米を買うこと)をすると書いてあります。

土地山険多深林 道路如禽鹿径 有千余戸
無良田食海物自活 乗船南北巿糴

『三国志』巻30 魏志 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条

翰苑(魏略)

翰苑(魏略)でも、同じようなことを紹介しています。
ただし「巿糴」と言う字を「布糴」と記述しています。これは誤字?

魏略曰
(…中略…)
無良田 南北布糴

『翰苑』巻第30 蕃夷部 注釈より
メモ

現在の対馬は平地が少なく、土地のほとんどが山です。
耕作に適した土地が少ない一方で漁業は盛んです。

比定地

邪馬台国をどこに比定する場合でも、対海国は総じて現在の対馬を指す説でほぼ一致します。
朝鮮半島から南の島は対馬と壱岐くらいしかないため、他の比定地説はほぼ存在しないというのが現状でしょう。

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